2014年09月09日

昭和天皇実録、残された謎

◆マッカーサー会見・靖国参拝見送り◆

 9日付で公表された昭和天皇実録は、昭和天皇の生涯にわたる初めての公式記録だ。宮内庁が24年をかけ進めた一大事業だけに、新事実の発見に期待が集まったが、「昭和史を塗り替えるような新事実はない」と分析を進めている専門家は口をそろえ、残された「謎」も少なくない。今後、編修に使用された原史料の公開が進めば新たな昭和史研究の第一歩となる。(昭和天皇実録取材班)

 ◆両論併記◆

 宮内庁は、実録の編修にあたり、確実な史料に基づき「ありのまま叙述」することを基本方針とした。史料により内容が異なる場合は、「可能な限り検討した上で」(同庁書陵部)簡単な記述にとどめたケースや、両論併記の部分がある。

 1945年(昭和20年)9月27日の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとの第1回会見が、その代表例だ。「戦争の全責任を負う者として、私自身を委ねるためお訪ねした」という昭和天皇の有名な発言がマッカーサーの回想記にある。だが外務省と宮内庁が2002年に公開した公式記録にはこの発言は含まれていなかった。

 実録は、戦争責任への言及がない公式記録の全文を載せる一方で、マッカーサーの回想記の一文も引用し、両論併記の形となった。マッカーサーとの会見は全11回のうち10回分の公式記録は確認されていない。宮内庁は米国にも職員を派遣して調査したが、新史料は発見できなかったという。

 ◆「拝聴録」の行方◆

 もう一つ、天皇の「本音」を知る重要な手掛かりになるのが「拝聴録」だ。戦前や戦中の出来事を戦後になってから天皇が側近に語り、まとめられたもの。

 複数回作成されたことはこれまで知られており、元宮内省御用掛の遺品の中から見つかり、90年に月刊誌で発表された「昭和天皇独白録」は、その一つとされる。編修にあたり、宮内庁は拝聴録の原文を探したが、所在は確認できなかった。ただ、占領期の「退位問題」について、天皇が68年(昭和43年)に回顧していたことは、聞き取りに関わっていた側近の関係史料などから特定された。

 靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)と昭和天皇の参拝見送りとの関係についても、実録は判断していない。06年に見つかった富田朝彦・元宮内庁長官の手帳メモには、天皇がA級戦犯合祀に不快感を示し、それ以降参拝しなかったとする内容が書かれていた。しかし実録では、88年(昭和63年)4月28日に天皇が富田長官に「靖国神社のA級戦犯合祀、御参拝について述べられる」とだけ記した。宮内庁は「富田メモは断片的でいくつも解釈ができるため、正確な気持ちがわからなかった」と説明する。

 47年(昭和22年)9月に天皇が宮内府御用掛を通じて、米国に沖縄を長期間にわたって軍事占領することを希望したとされる「沖縄メッセージ」についても、天皇が御用掛に会ったことや、後年、米国から文書が見つかったことは記されたが、天皇が御用掛にこうした発言をしたかどうかには触れなかった。

 こうした言動が盛りこまれなかったことについて、宮内庁は「確実な史料が少なく、また信ぴょう性が乏しかった」と説明する。

 ◆事実を「確定」◆

 一方、実録が事実を“確定”したケースもある。29年(昭和4年)6月27日、張作霖爆殺事件の処分を巡り、天皇が当時の田中義一首相を厳しく叱責する場面。

 天皇は「独白録」で「辞表を出してはどうかと強い語気で云つた」と振り返っているが、当時の重臣の日記などから「辞表までは求めなかった」との学説もあった。実録は、「辞表提出の意をもって責任を明らかにする」よう求めたと明記し、「独白録」説をとった。宮内庁は「侍従日誌なども検討して掲載を判断した」と説明している。

 ◆発掘史料の開示に期待◆

 宮内庁は、実録の編修作業の過程で「取材」を行い、元侍従長の百武三郎の日記など、存在が知られていなかった約40件の外部史料を発掘した。これまで未公開だった「お手元文書(皇室文書)」も引用した。

 これを生かした実録は、2・26事件をはじめ、重大時の時々刻々、そして天皇の衣食住のありようから、生物学者としての研究ぶり、見た映画の題名まで明らかにしている。天皇の「心労」「落涙」など身近な人たちしか分からない心の内も、要所要所で書き、戦争と平和の時代を生きた天皇の複雑な思いも伝えている。

 ただ史料収集には限界があった。同庁では、昭和天皇と接点のあった関係者の遺族らに日記類などの提供を要請したが協力を得られない場合も多く、「存在自体を公にしない」との条件で引用したケースもあった。

 同庁は「所有者の要望もあり、すぐには公開できないが、将来、条件が変われば史料名も開示することができる」と説明している。

 「お手元文書」原本は情報公開の対象外とされているが、実録執筆に使った「写し」は行政文書で情報公開請求の対象になる。古川隆久・日本大教授(日本近現代史)は「記載を検証するためにも、職員が書いた日誌はすべて公開するのが当然だ」と話す。宮内庁は9日から、同庁書陵部で全文を誰でも閲覧できる措置をとり、情報開示に積極的な姿勢を見せた。戦前、戦中、戦後と激動期にあった昭和時代の検証を進めるためにも、原史料を極力開示していくことが求められる。

 ◆腰引けた記述も◆

 伊藤之雄・京都大教授(日本近現代史)の話「実録を分析することで、これまでの仮説が裏付けられたり、事件の評価が変わったりしていくだろう。そこは評価したい。ただ、昭和天皇の人物評価や皇族とのあつれきなどは、意図的と思うが書かれていない。マッカーサー会見の記述も論争を避けようと腰が引けている。事実を挙げるだけでなく、合理的に解釈していかないと歴史の流れは見えてこない」

       ◇

 ◆昭和天皇を巡る残された謎◆

   (→は実録の内容)

 ◇マッカーサーとの会見で、「戦争の全責任を負う者として私自身を委ねる」と語ったか

 →「語った」とするマッカーサーの回想記と、その発言が不記載の公式記録の両論を併記

 ◇複数作成された「拝聴録」の行方は

 →宮内庁は2回調査したが、原本は見つからず

 ◇靖国神社の参拝見送りはA級戦犯合祀が原因か

 →史料の解釈が分かれるとして断定せず

 ◇米国に沖縄の長期軍事占領を希望したか

 →天皇の意向かどうかは特定せず

       ◇

 ◆百武三郎=1872年(明治5年)、佐賀県生まれ。日清、日露戦争に従軍し、1928年に海軍大将となる。36年11月、2・26事件で重傷を負った鈴木貫太郎の後をうけて侍従長に就任し、44年8月まで務めた。戦後は、結婚前の昭和天皇の三女、孝宮(たかのみや、後の故・鷹司和子さん)を百武家で預かり、家事見習いを教えたこともある。63年10月に死去。



Posted by jimufuku at 11:50│Comments(0)
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